「ネコの展覧会」
先日、岩手町の石神の丘美術館の企画展「好摩出身 猫の画家 高橋行雄展」を観てまいりました。
高橋画伯は、1976年に猫の絵がパリで評判になって以来、世界中から「ネコの絵描き」と呼ばれている方です。
鉛筆のみで描かれた猫たち。どの絵もとても愛らしくて心が和みました。
図録に寄せられた「内館牧子さん」のエッセーを紹介します。
ネコ好きの方には思い当たることがあるかも知れませんね。
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私が世界で一番好きな動物は野良猫である。
今から八年ほど前、自宅の庭に突然、一匹の野良が現れた。白と黒の痩せた体に枯れ葉やごみをつけ、おびえたような目はキウイフルーツの緑だった。私は煮干しの頭を外し、与えてみた。絶対に食べようとしない。知らんぷりして空を見上げている。私は部屋に入り、窓のカーテンを閉めた。私の姿が消えるなりもう皿まで食いちぎりそうな勢いで、ガツガツと煮干しを食べた。
以来、毎日来るようになった。キャットフードや缶詰、そして水を用意しても私の姿が見えているうちは絶対に食べない。「お腹いっぱいだから」という顔で、キウイフルーツの目で空を見上げている。私の姿が消えるや皿に突進して、息もつかずに食べる。
こんな状態が二年近く続いたある日、突然「ニャア」と鳴き、私の膝にのってきた。そして煮干しを食べた。鳴き声をあげたのも、私に寄って来たのも初めてだった。すぐに病院に連れて行き、部屋で飼おうとした。ところが、絶対に部屋には入らない。猛暑でも極寒でも外がいいらしい。自由にどこかを歩き回り、たぶん猫会議に出たりして、ごはんの時間になると戻ってくる。
私はこの雌猫に、「カミラ」という名をつけていた。畏れ多くも、チャールズ皇太子夫人の名である。カミラ夫人は美貌ではないし、愛嬌もない。なのに、あのダイアナ妃よりも皇太子のご寵愛を受けている。うちの猫も美貌とは無縁で、まったく愛嬌のない顔なのだ。それなのに私のご寵愛を一身に受けている。
私は庭の隅に発泡スチロールで「バッキンガム宮殿」を作り、屋根には日本と英国の国旗を立てた。もう六年もカミラはその城の女王である。時々、野良の友達を連れてくるのだが、面白いことにどの野良も私の姿が見えるうちは絶対にエサを食べない。「食べ物をもらいに来たんじゃねえよ」とでも言いたげに、知らんぷりして毛づくろいしたり、悠然と空を見上げたりしている。カミラが食べていてもだ。そして、私の姿が消えるなり皿に突進する。
それは「プライド」なんぞというありきたりの横文字では軽い。小さなアゴをクッと上に向け、空を見上げている姿には「尊厳」が漂っている。
そんなある日のこと、工藤直子さんの「それだけ?」という詩に出会った。
いつものように散歩すると
いつものように日なたぼっこする猫がいる
いつものように疑問がわき
いつものように質問する
<猫に逢うと あなたもそんな気にならない?>
なにをしているの? すわってるの
それだけ? それだけ
<猫のおでこには謎がいっぱい詰まっているはずなんだがなぁ>
あんた綿雲だったことがあるでしょ? まあね
それから? それだけ
あんた満月だったことがあるでしょ? まあね
それから? それだけ
猫については
なにがあっても不思議はないと思う
そうか、野良猫はかつて綿雲だったから空を見上げて少し淋しげで、満月だったから尊厳が漂うのか。
高橋行雄画伯の描く猫は、野良であれそうでなかれ、かつて綿雲や満月だったことを感じさせる。
愛らしさと淋しさと尊厳、猫の本質が匂い立つ。
初めて高橋画伯の個展に伺った時、一枚の作品の前で棒立ちになった。カミラがいるのかと思った。
綿雲のような真っ白い花を頭につけた黒猫は、カミラと同じ目をしていた。キウイフルーツの色だった。
私はカミラを膝にのせ、キャットフードを食べさせながら聞いた。
「あんた高橋先生の絵だったことがあるでしょ?」
「まあね」
カミラは綿雲の空を見上げ、ニャアと鳴いた。
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